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2006年02月27日

ビギナーの戯言

とりあえず、失われた文章の復活から。2004年の夏に、詰将棋について何かエッセイを書いてほしいと全日本詰将棋連盟ホームページの管理人さんから頼まれた。看寿賞を受賞したばかりの私は、ほいほいと喜んで愚にもつかぬことを書いて送ったのだが、それからほどなくしてその方がご病気になり、やがてサイト自体が閉鎖されてしまった。このまま忘れ去られてもいいような文章ではあったが、せっかく書いたものであるから、こっそりここに再掲しておこう。

ビギナーの戯言

 看寿賞作品集と若島氏の作品集に感心していたところを友人にたきつけられ、創作の真似事を始めたのが2001年の秋。十作送れば一つくらいは、という安易な心境で投稿した作品が2002年末から次々に載り始め、あれよあれよという間にとんでもない頂に登りつめてしまった。全国大会で表彰されてから一ヶ月余り、あのお祭り騒ぎも、今ではすべて夢だったのではないかという気さえしてくる。
 実際、駆け出しの青二才が評価してもらえる作品を生み出すなどということは、普通なら夢物語である。詰将棋創作には、十分な棋力に加えて収束や手筋などに対する深い知識、それに膨大な時間をかけた試行錯誤が必要だ。ましてや看寿賞級の作品となれば、完成までに年単位の時間がかかっていても不思議ではない。一朝一夕にはできないのが、詰将棋である。
 私が受賞の栄誉に浴することができたのは、それこそ宝くじに当たったようなもので、千に一つの運をつかんだに過ぎない。ただし、いくつかの点に留意して創作することで、万に一つから千に一つに確率を上げられたような気はしている。棋力はないが詰将棋を創ってみたいと思われている方のためにも、ここで経験談を少し書いてみたいと思う。すでに創作の経験がある方から見れば苦笑を禁じ得ない内容に違いないが、賞にはしゃぐビギナーの戯言と大目に見ていただきたい。

○偉大な作品集
 「よい」詰将棋とは、何だろうか?難解なもの、すさまじい妙手があるもの、雄大な構想が表現されているもの、あるいは曲詰……答えは一つではない。何を「よい」と感じるかは、人によって様々だ。自分はどういう詰将棋を特に「よい」と思うのか、それを知ることがまず大事だと思う。それはそのまま、自分が創ってみたい詰将棋の姿でもあるからだ。
 そのためには、偉大な先人の作品集をじっくり鑑賞するのが一番いい。自分の場合は「盤上のファンタジア」であったが、「極光21」でも「夢の華」でも、定評のある作品集なら何でもよいだろう。「よい」詰将棋とは、なるほどこういうもののことか、と思えること請け合いである。必ずしも解く必要はない。ページを繰っては手順を追い、そして感嘆の声をあげるということを繰り返す。これが効くのだ。大事なのはこの場合棋力ではなく、言うなればちょっとした感受性である。
 「盤上のファンタジア」はどれも感心する作品ばかりだったが、自分はこれらのいったい何にこんなに感じ入っているのだろう、とふと考えた。名作を眺めているうちに、自分なりにくみ出した一つのキーワードは、「意外性」だった。わずか数枚の駒が置かれた初形から素晴らしい手順が続く意外性、ほぼ絶対手と思える手が絶妙に逃れてしまう意外性、一度起きたことがもう一度起きる意外性。そこには、詰将棋文化が行き着いた一つの理想が具現化されていた。
 あの作品群には到底及ばないが、「えっ、そうなのか!」と解く人に一瞬でも思ってもらうことを目指す。それが、私の創作における理念の一つになった。

○強力な助っ人
 言うまでもなく、現代において創作初心者の強力な味方になってくれるのが、将棋ソフトの存在だ。長手数の作品もあっという間に解いてしまうし、何より余詰の有無を検討してくれるのだから素晴らしい。これがあるからこそ、私のような読む力ゼロの凡才にも、初めて道が開かれたのである。自分の頭脳一つで傑作を世に出してきた先人たちには申し訳ない気がするが、何ともよい時代になったものだ。
 しかしこうした便利な道具を使うことは、一方で創意の放棄に陥る危険性を常にはらんでいる。早い話が、駒を適当に並べて「詰」ボタンを押して、余詰なく詰んでいれば作品の一丁上がりなのだから、こんな楽な話はない。だがそのように創ったところで、解いた人に感興を味わってもらうことは難しいだろう。詰将棋は創り手と解き手のコミュニケーションであるから、創り手の主張が伝わるような作品でなければ、知らない言語で話しかけられたようなもので、あまりいい反応は返ってこないと思う。
 創作にあたって自分が心がけたのは、基本的には逆算で作ること、特に収束をおろそかにしないことだった。着地が決まるとよい印象を与えることができるし、何より機械まかせという感じにならない。もちろんパターンがほぼ出尽くした現代においては、どこかで見たような形になるのはある程度やむを得ないから、そこからの戻し方が勝負である。いわゆるモデルメイトかそれに近い詰め上がりになるようにしておいて、そこから逆算をしていきながら、何か面白い手が入らないかと試行錯誤する。そしてこまめに、ソフトに余詰のチェックをしてもらう。これが私の基本的なスタイルだった。
 虫のよい逆算をしてから、どうせダメだと思いつつ余詰検査を始めて、そこでコンピューターが沈黙したときのうれしさと言ったら!あの瞬間こそ、創作の醍醐味だった。ソフトの助けを借りているという違いはあるものの、その至福の時はおそらく、江戸時代から幾多の詰将棋作家が味わってきたものと同じであると信じている。

○友人の存在
 自分の創作の過程において将棋ソフトと同じくらい重要だったのが、二人の友人の存在だった。そもそも、彼らと詰将棋の話をするようになり、「絶連でもいいからちょっと創ってみて」とそそのかされたからこそ、賞を受けた自分が今ここにいるのだ。正直なところ、看寿賞は自分と将棋ソフト、それに友人二人の三人プラス一ソフトの連名でいただくべきだったのではとすら思っている。
 程度の差こそあれ、詰将棋作家は誰しも自作に愛着を感じている。心のどこかでかわいく思っているから、人に見せたり雑誌に投稿したりもするのである。ただ、我が子かわいさのあまり、小石が真珠のように見えてしまうこともしばしばだ。どんな大絶賛が見られるだろうと期待に胸ふくらませて作品を投稿し、結果発表でがっかりするというストーリーは、詰将棋作家の多くが一度は経験しているのではないだろうか。そんなとき、身近に詰将棋を見てくれる人がいれば、投稿前に頭を冷やして作品を見つめ直す機会ができる。思いもよらないコメントをもらって、そんな見方があったのかと気づかされる。これは想像する以上に、創作において大事な過程なのである。よき作品を創りたいと思ったら、よき仲間をつくることだ。
 私も創作にあたっては、その二人の友人にどれだけ助けられたか知れない。彼らの確かな鑑賞眼のおかげで、駄作を投稿して大恥をかくのを幾度まぬがれたことか!また、彼らから何とかいいコメントを引き出したいと思うことが、ますます創作意欲を刺激するという効果もあった。「おお、今回の、いいじゃないですか!」と言われて、「まあそれほどでも……」と言いつつにやにやする、そういう光景を実現したいと思う「下心」が、実はかなり重要なのだ。誤解を恐れずに言えば、「人に褒められたい」という、一見卑しくすら思える感情が、私を含めて多くの詰将棋作家の創作の原動力になっているように思う。
 今はもう住むところもバラバラになってしまったが、このページを見に来るであろう彼らに、この場を借りて改めて感謝したいと思う。

 以上、私の創作体験をざっと述べてみた。私の受賞は、ほとんど創作経験がなく、また将棋がまるで弱くても、やりようによってはよい詰将棋を創れる可能性があるということを示す、一つのモデルケースになったのではないかと思う。私自身は、今後もうまともな作品を生み出せる気はあまりしないが、これからどんどん駆け出しの大型新人が登場することを期待してやまない。

2006年02月25日

始めてみた

ウェブログである。

元来が天の邪鬼な性分だからか、世間で今これが流行っていると聞くと、自分は手を出したくなくなる。例えば、「よく売れているから」という理由で何かを買ったりすることはあまりない。本もしかり、CDもしかり。

そういう人間であるから、猫も杓子もブログというこのタイミングで始めるのにはいささか抵抗があったが、自宅サーバをこっそり立ち上げたのを機会に、どんなものか一度試してみようという気になった。どこまで続くかあやしいものだが、忘れられない程度にゆったり更新できればと思う。