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盤上を支配する

昨日の登山の帰りに「文學界」2月号を買ってきた。「猫を抱いて象と泳ぐ」の出版を記念して、小川洋子氏と若島正氏が対談しているのである。昨年の5月に若島さんとお会いしたときに伺った話もいくつか出ており、興味深く読んだ。

対談中、若島さんがチェスとチェスプロブレムについて語ったくだりがある:

若島 (チェスプロブレムとは)いろんな可能性を自分の頭の中で試しつつ、何が最も美しいかを選び取っていく行為なんです。チェスを指す方はより人間的といえば人間的で、小説の中にも出てきますけど、相手がいるという問題がありますよね。相手がたとえばチェスの詩が分かる人ならばそういう棋譜が描けるし、それこそ公園で賭けチェスをやっているような相手とやると、粗暴な棋譜しか描けない、ということが起こります。

ゲームとしてのチェスを指すこと、チェスプロブレムを解くこと、そしてチェスプロブレムを創ること。この3つの行為を比べたとき、この8×8の盤上の世界をどれだけ支配できるかということは、その違いを計る一つの尺度たり得ると思う。チェスを指す場合、どれほど強いプレイヤーであってもすべてが思い通りになることはない。若島さんが言うようにチェスには相手が必ずおり、自分が支配できない相手の指し手なしには世界を構築することはできないからだ。これがプロブレムを解くとなると、相手の手を考えるのも自分である。最初から最後まで自分が手順を考えるのであるから、盤上に広がった世界をより確実に支配し、掌握していることになる。しかしその手順は与えられたプロブレムによってすでに規定されたものであるから、まだ十分ではない。プロブレムを創るということは、いうなれば盤上で起こることをすべて自分が決めようという行為であり、これこそが世界の究極的な支配である。チェス盤を現世界と思うなら、ゲームとしてのチェスにおける支配とは敵国を打ち負かしての世界制覇というところだが、プロブレム創作の支配とは神による天地創造なのである。「支配」のレベルが違うのだ。このことはもちろん、将棋と詰将棋についてもそのままあてはまる。

だからプロブレム作家や詰将棋作家というのは、すべてが自分の思い通りになってくれないと気がすまない人種なのではないかと思う。またそういう支配欲を心のどこかに強く持っている人ほど、素晴らしい作品を創れるのではないか。対談を読みながら、そんなことを考えた。

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