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2010年03月01日

完全なる証明

少し前に出た「完全なる証明」(マーシャ・ガッセン著・青木薫訳)を読んだ。ポアンカレ予想を証明したペレルマンはフィールズ賞も100万ドルもすべて辞退して外との接触を断ち、そのことでなおいっそう世間の耳目を集めるようになった。彼とポアンカレ予想について数学者以外の人間のために書かれた本が数多く出版されたが、本書もその一つである。ペレルマン本人には一切接触できないので、著者は彼の周辺にいた多くの人たちに根気よくインタビューを行い、それをジグソーパズルのように組み上げることで本書を書き上げている。取材量の豊富さや、著者自身がソ連の数学専門学校で学んでいたという経歴の持ち主であることは、本書を他のペレルマン本と一線を画すものにしているといっていい。

一般的な感覚からいえば、その分野における最高の賞や100万ドルをもらえるという栄誉を拒否するというのは、かなり奇異で理解しがたいということになるだろう。彼に対する数年前のマスコミの関心の高さは、数学に対する世間の普段の無関心さを考えれば、異常とすらいえるものだった。しかしペレルマンのこれまでの軌跡を生い立ちから追ったこの本を読めば、彼のそうした行動もそれほど不自然なことではないという気になってくる。実際のところ、ペレルマンほど極端ではないにせよ、地位だろうがお金だろうが、およそ数学以外のほとんどすべてのことは煩わしいだけの雑事であるという感覚を内に持っている数学者は、それほど珍しくないのではないか。フィールズ賞と100万ドルを断る数学者はそうはいないだろうけれども、まあ中にはそういう人がいてもおかしくはないなと当初から思っていた。本書を読んだ今では、彼の隠遁がさらに自然なこととして感じられる。

本書の特筆すべき点は、ペレルマンが青年期を過ごしたソ連の教育システムの内実を克明に描写しているところだ。例え優秀な成績であっても、ユダヤ人であればよほどの事情がない限りエリート教育を受けられる枠から外されてしまう。それどころかユダヤ人でなくても、ユダヤ人っぽい名前であればそれだけで優先枠から排除されたりするのだ。研究者も、当局がちょっとでも気に入らないと思ったら、全くよく分からない理由で突然激しい攻撃を受けて左遷させられてしまう。冷戦時代の共産圏がどういう世界だったか話には聞いていても、やはり実際にそれを経験している人間が直接語ると、迫力が違う。イデオロギーの影響を最も受けにくいと思われる数学ですらこうなのだから、他の分野など推して知るべしだ。恐い世界である。