今朝もアサガオは1輪咲いていた。7月1日から始まったアサガオ数列は1,0,1,0,1,1,1となった。
先日、利用しているプロバイダから、パスワードが漏洩した可能性があるので変更するようにとの通知が来た。この手の連絡は十中八九偽物と決まっている。しばらく放置していたところ、変更したことが確認できないアカウントの利用を停止するという対応をされてしまった。どうやら本物だったらしい。もちろん手続きを行ってすぐに利用は再開できたが、強度や覚えやすさなどを考慮して決めたパスワードだったのに、あっけなく破棄させられてしまった。
何か新しくパスワードを決める必要がある際、最近はパスワードマネージャが立ち上がって十分な長さのパスワードを自動生成し、これを使えとすぐ勧めてくる。勝手に決めて勝手に入力してくれるから、覚える必要がない。忘れる心配もないから便利だろう、というわけだ。確かに便利には違いない。ただ、新しい技術に完全に依存してしまい、「自分自身は知らなくてもよい、分かっていなくてもよい」ことを提供するこの手のサービスには、どうしても不安を感じてしまう。もしその技術が何らかの理由で使えないときは、もう自分ではどうしようもなくなってしまう。それで本当に大丈夫なのか、と感じてしまうのである。今回のパスワード変更も、結局自分で新たに考えたものを採用した。
車で初めての場所に行くとき、ナビの指示に従って運転するのが今では当たり前だ。自分も利用はするが、昔から出発前に自分でも地図を見ておおよその経路や曲がるべきポイントを押さえるようにしている。自分自身の頭で何も分かっていない状況というのはどうも居心地が悪いのだ。最近の生成AIも、驚異的な性能にはただただ驚かされるばかりだが、提示された回答をうのみにすることはできない。自分の能力が不足しているとしても、いったんは自身の頭で咀嚼することを試みる。そうしないとこわいからである。学生のレポートから研究者の研究論文に至るまで、生成AIのせいで存在しない文献の引用が最近は多発するという話だが、よく確認しないで出すものだと思ってしまう。
もっとも、こんなふうに感じるのは、自分がすでに古い人間に属するようになったということかもしれない。





